つなぐ
あのとき、
僕は東急東横線の電車に乗っていました。
渋谷から横浜への帰宅途中で、
呑気にお昼寝をしていたのです。
反町駅から横浜駅の間の地下区間に電車が入った頃に、
震度5強の揺れを横浜でも観測していました。
揺れた瞬間は夢の中。
ふと起きると電車が止まっていて、
2回目の揺れに気付いたのでした。
ちょうど地下区間だったことで、
電波がない環境だったため、
何が起こっているのか分からない事態。
電車内のアナウンスも「地震のため~」と、
それ以上の詳しい説明はありませんでした。
約1時間半ほど電車に閉じ込められた状態で、
情報が全く入ってこないというのは、
なかなかの恐怖でした。
ようやく動き出した電車が、
各電車が今いる地点から一番近い駅で乗客を降ろすということで、
たまたま僕は横浜駅で降りることが出来ました。
当時、
戸部という街に住んでいましたので、
歩いても15分程度。
とりあえず良かったなとホッとしていました。
しかし、
電車を降りると、
駅員さんの「津波の可能性があります。ただちに地上へ避難してください」との叫び声が・・・。
1時間半、
情報のない地下にいた僕は、
「え、そんな大事になっているの?!」と焦ります。
横浜駅にはとんでもない数の人が溢れていましたが、
もうその頃は電波が繋がらない状態になっていたことで、
混乱しているのが目に見えて分かりました。
とはいえ、
その時点では、まだ事の重大さに気付いていなかった僕は、
その日に作ろうと思っていたカレーの具材と、
そろそろ切れかかっていたトイレットペーパーを買って、
横浜駅へ大量に向かっていく人の群れとは反対に家に帰りました。
当時、住んでいた家はたまたま数か月前に耐震工事が行われたおかげか、
軽く物が落ちていたくらいで済みましたが、
テレビを付けて、
ようやく事の重大さに気付きます。
もう忘れもしない、津波の映像でした。
そこからは震えと涙がしばらく止まらなかったことを、
今でもまだ鮮明に覚えています。
11年という月日が経っても、
記憶や記録は残り続けます。
それは例えば、
僕の9歳の誕生日だった日に起こった阪神大震災もそうですし、
4年前に北海道で起こった胆振東部自身もそう。
忘れられるわけはないし、
忘れたいと思うことはないです。
肩肘張って、
「忘れない」という感情を強要するのではなく、
自然と湧き上がってくる忘れられない感情を、
時に空を見上げて思い出したり、
誰かと静かに共有したり。
きっとそういうことが大切で。
辛さの真っただ中にいるときは、
その思いすらうまく話せなかったりすると思います。
けれど、
それで良いんだと思います。
ただ呼吸するように、
出てくるものから吐き出せばいい。
震災でお亡くなりになられた方のご冥福をお祈りすると共に、
今を生きる皆様のご多幸をお祈りします。
投稿者プロフィール
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ご覧いただきありがとうございます。
ここがあなたの心の寄り処になれますように。
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