母の日

22年前の今日のこと。

 

サッカー部に所属していた僕は、
中体連の地区予選の真っ最中でした。

 

晴れて暑い日だったけれど、
今よりは北海道らしくからっとしていたように思います。

 

その日は母が仕事の合間を縫って、
応援に来てくれると朝言っていました。

嬉しいような恥ずかしいような、
中学3年生の夏。

 

それでも何となく試合中、
観覧席を気にしてみたりはしていました。

午前中は一度見えて、
「あ、来てるから頑張らなきゃ」なんて思いながら、
大して上手くもなかった僕は点を取るような活躍も出来ずでした。

 

午後になって、
一度仕事に戻ってまた来ると言っていたので、
またちらちらと気にしていた僕ですが、
午後は見当たらない様子。

この時は仕事が忙しかったのかなくらいに考えていました。

 

夕方頃、
家に着くと、
そこには泣いている姉がいました。

「落ち着いて聞いてね」という姉から出た言葉は、
母がくも膜下出血で倒れて手術中であるというものでした。

 

くも膜下出血?
それってどんな病気だっけ?
母が?
今日?
昼に会ったのに?
どうなるの?
もう会えないの?

 

頭の中が真っ白になって、
鼓動がとてつもなく速くなって、
それでも何とか落ち着こうとして、
普段なら読みもしなかった新聞の夕刊をとって、
入りもしない内容を読み始めていたのでした。

当然落ち着くはずもなく、
手が震えてきて、
涙が止まらなくなりました。

 

生きるか死ぬか五分五分と聞かされ、
父に連れられ車で病院に向かう中も涙は止まらず、
姉と3人でずっと泣きながら病院に着きました。

母の妹にあたる叔母が看護師をやっていることもあり、
冷静に状況を説明してくれて、
それでも落ち着けるわけはなかったのですが、
「先生がすごい人だから大丈夫」って言葉には、
随分救われたような記憶があります。

 

どのくらい待ったのか、
何時だったのか正確に覚えてないくらい、
時間の間隔は曖昧ですが、
無事に手術が終わったとの報告をいただき、
集中治療室に母が運ばれてくるとのこと。

その姿は疲れ切っているように見え、
そんな風にさせてしまったことへの自責の念と、
とりあえず一命を取り留めてくれたことへの安心で、
また涙が溢れてしまいそうでしたが、
きっとかっこつけたかった中学3年の僕は、
必死でそれを抑えていました。

 

先生や看護師さんのお話を少し聞いてから帰ろうとすると、
母が目を覚まし、
まるで一緒に帰ろうとするように起き上がろうとしました。
それはとてもとても強い力で、
看護師さんが全力で抑えてくれなければ止まらないくらいでした。
「一緒に帰りたいんだね」って看護師さんの言葉と、
母のその姿を見てしまったら、
堪えていた涙はまた止めることが出来なくなりました。

あとから聞くと、
母もその時のことは覚えていて、
「なんで一緒に帰れないんだろう?私も帰る」
そんな気持ちだったと話してくれています。

 

幸いにも大きな後遺症は残らず、
少しずつ新しい仕事を始めたりしながら、
今も元気にやっています。

神奈川に僕が住んでいた頃、
4年に一度くらいしか帰らないオリンピックみたいな息子であったり、
母の日なんていつも何もしていないですし、
まだ大した親孝行も出来ていないのですが、

僕にとってはどんな日よりも、
この22年前の7月5日は『母と僕の日』で、
この日だけ絶対に忘れず、
毎年メッセージを送るようにしています。

 

母と僕の関係は、
親子でありながら、
冷たい意味ではなく、
それぞれが一個人、一他人と捉え合って生きてきているので、
親友のような兄弟のような、
逆に何でも言える関係を築いてきているように思います。

今はニセコで住み込みで働いていますが、
たまたま昨日から帰ってきていて、
これを書いているすぐ傍に居ますし、
どうやらいつもブログを読んでいてくれていたり、
LINEメッセージも読んでくれているようです。

 

多くの皆さんのサポーターでありたい僕にも、
身近に強いサポーターがいてくれて、
なんだか嬉し恥ずかしですね。

 

ちなみに今年知ったのですが、
当時、母が入院中、
僕は毎日お見舞いに行っていたらしいのですが、
僕自身は覚えていません(笑)

お互いに程よく淡白なところが、
長続きする関係の秘訣なのかも知れませんね。

 

皆さんも大切な方を大切に。
そしてご自身も大切に。

 

 

投稿者プロフィール

榊原一樹
榊原一樹くれたけ心理相談室札幌支部 心理カウンセラー
ご覧いただきありがとうございます。

ここがあなたの心の寄り処になれますように。

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